その後、四国八十八ヶ所第六十番札所の横峰寺(よこみねじ)、同じく第六十四番札所の前神寺(まえがみじ)が
常住社の別当寺(べっとうじ)となって、幕末、明治維新を迎え同時に明治天皇の大命により、
神仏混淆が禁止され、別当寺が廃止となり石鎚神社と定められました。
しかしながら、現在も永く深い信仰をものがたるかのように、神仏混淆が色濃く残っています。
かつて弘法大師も石鎚山で修行したと伝えられ、桓武天皇、文徳天皇、武将としては源頼朝、河野家一族、豊臣家一族の厚い信仰があり、
慶長十五年豊臣秀頼公により、中之宮成就社が御造営されましたが、明治二十二年の火災により消失しました。
(現在の成就社は、昭和五十五年十一月十三日、災禍にみまわれ焼失、昭和五十七年六月二十日に復興、御造営されました)
また、寛文年間よりは、西条藩主、小松藩主の信仰が特に厚く、神殿の修理、神器、神宝の奉納が数々ありました。
明治初年、明治天皇の大命により神仏混淆が禁止された当時、石鎚神社は県社の社格に列せられていました。
その後、大東亜戦争の終了と共に、全国の神社は神社本庁に包括される宗教法人となり、
石鎚神社は従来の官国幣社と同格の別表神社という待遇を受けました。
これと共に、石鎚信仰の神仏混淆という特殊性等を生かすために、石鎚神社の傘下宗派として、宗教法人石鎚本教を創立しました。
これにより、神社のみでは発行できなかった教師免状や、教会設立の便宜を図ることができるようになり、
国内はもとより、遠く海外まで信徒、崇敬者の輪が広がり、神社、本教一体となって発展し、現在に至っています。
飛鳥時代(685年)に、役の行者(役小角・えんのおづぬ)によって開山されました。
その後、寂仙菩薩(じゃくせんぼさつ)が石鎚蔵王大権現(いしづちざおうだいごんげん)と称えて深く信仰。
山路を開き、登拝者を導き、常住社(じょうじゅうしゃ・今の中之宮成就社)を創立するに至りました。